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講演会講師インタビュー / マラソン元日本代表 谷口浩美 氏

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講演会講師インタビュー|1991年世界陸上男子マラソンで日本人初の金メダルを獲得。アスリートとしての経験談や、ひたむきに前に進むことの大切さについて講演を行っている谷口浩美(たにぐちひろみ)氏にインタビューをしました。

目次
  1. 名言「コケちゃいました」を振り返る
  2. 陸上の名門、旭化成で世界のマラソンを見た
  3. 失敗こそ振り返り、次の勝ちへつなげる
  4. 講演で伝えたいこと

名言「コケちゃいました」を振り返る

8位でゴール途中のアクシデントで8位になったものの、入賞するというこだわりを貫いた谷口氏。当時のエピソードや心境について語っていただきました。

――

谷口さんと言えば、あの名言「コケちゃいました」を思い出します。1992年のバルセロナ五輪のマラソンですが、もう30年以上も経ちました。でも、今もあの言葉は頭の中に強く残っています。

谷口

ずいぶん時間が流れまして、今の40歳ぐらいの人だったらだいたい記憶にあるかなぁ…。40歳過ぎの人なら当時10歳ぐらいだから、分かるかなぁ。あと、オリンピックに興味のある人なら、4年に1度の(五輪)アクシデント特集なんかで取り上げてくれて、必ずそこで「コケちゃいました」が出てくるので、それを見て、ちょっと覚えてくれているかな、という時代になりましたね。

――

運命のオリンピックを少し振り返りたいのですが…。男子マラソンは谷口選手のほか、森下広一選手、中山竹通選手の3人が出場していました。8月9日、スタート時の気温は31度、向かい風約5m。初のオリンピックのスタート前、どんな緊張感でしたか。

谷口

(レースに向けては)だいたい100日前、3カ月前から準備するんですけども、実は3カ月前に(練習を)スタートした時に疲労骨折したんですよね。それで1カ月間、極秘入院していたんです。ですから…普通だったら出場できないですよね、骨折だから。でも幸いなことに報道の皆さんに知られなくて、陸連側も黙っていてくれていて、そういう思いがありながら、スタートラインに行き着くことができたんです。
まぁ、その中で1番の緊張はといえばですね…スタート時間を1時間間違えた、ということですね(笑)。スタートは(午後)6時半だったんですけど、もう5時半前からウォーミングアップに行き出したんですよね。それを見た当時の宗茂監督(旭化成監督、日本選手団陸上競技コーチ)が慌てて追いかけて来て、「谷口、何やってんだ」っていうふうに言われて。ハッと我に返ったのが、1番の緊張だったんじゃないかと思うんですよね。

――

アクシデントは20km過ぎの給水地点で起きました。そばを走っていたモロッコの選手と接触し、左足のかかとを踏まれて転倒されました。その際にシューズが脱げました。ビックリされたことと思います。

谷口

ビックリしたというよりも…ビックリはビックリですけども、上げるはずの左足が上がらないわけですよね(笑)。それと同時に右手は(給水の)ボトルを握っていたんですよね。それから転んで靴を拾うまでは、それこそ「走馬灯のように」という言葉がありますけども、そのように約30秒間、はっきりと覚えているんですよ。ですから足は踏まれた、水は持っている、足が出ない、靴が脱げた…って。
(空中に)飛びながら、真正面から倒れたら、綺麗な顔がつぶれると思いまして(笑)、身体を左にひねって転んだんです。骨折とかしないように、そういうふうに、転びながら(空中に)飛んでいる時は、自分の靴がどこにあるか、靴の位置まで見ているんですよね。で、転んで…。給水所だったので、ちょうど水で路面が濡れていたんですよね。それで運よく、水と同時に滑ったもんですから、結果論として左ひじと右腰骨のちょっとした擦過傷だけで済んだんですよね。

それでその間に、そのまま起きて走るか、靴を拾いにいって履き直して走るかという選択肢が生まれているわけです。スペインの路面は硬いということで、靴(底)は厚めに作っていただいたんですよ。オーダーで。だから履き直しにいくしかないと思って、戻ったんです。ソックス、靴下を履いていれば靴ひもを解かないと(足が)入らないですが、僕は素足で靴を履いていたので、スッと入って、靴べらを引っ張って、履き直せた。
それから追いかけることになるんですけど、その追いかける時に、ボトルを握っているんですよね、ビデオを見ると。でもボトルを取ったということだけ、僕の記憶にはないんです。それから走り出して、サングラスを投げたというのは全部覚えているんですけど。ボトルを取っていたということだけが、自分の意識の中では残ってないですよね。

――

履き直すのに約30秒かかったとのことですが、ダメージはそれ以上に大きかったと思います。結局、その後追い上げたものの、優勝争いに加われずに終わりました。優勝争いから脱落した中で、順位を上げていく、追っかけていく時の気持ちって、どういうものだったのでしょう。

谷口

棄権するとか、そういうことは考えなかったですね。せっかくオリンピックに出させてもらったので、諦めるって、まだ半分ありますので。諦めるという気持ちは全く起こらずに、じゃ何をするか、と。それでまず今までサングラスをして走ったことがなかったから、まずサングラスを捨てて。それも日本人がいるところに投げ捨てて(笑)。その状況は全部見えているんですよね。で、どうするか。30人ぐらいがいる中で、一気にいけるわけでもないし、徐々にリズムを作りあげなければいけないので。
例えば車が信号で止まった時、次に発進する時にはものすごいエネルギーがいるじゃないですか。(エンジンを)吹かさないと車は動かない。人間も同じように、止まってしまうとリズムをつくるのにものすごく時間かかるんですよね。そこの(リズムを作り直す)部分を間違わなければ、付いていけるだろう、と。間隔を保ちながら、(無理に追い上げることを)我慢するという難しさ、それが大事だったですね。

しかしそれから走り続けていくと、何分かの差はあまり変わらずに、1人2人と落ちてきましたので、それからは選手の順番を数えて走っていましたね。ちょうど30kmがダウンヒルで、30kmの通過地点が後ろから見えていたので、それで順番を数えたんです。その時で15番まで上げていました。それからまた走り始めて、今度は35kmでコロンブスの塔を右折するんですけど、そこでまた順番を数えると12番だったんです。12番目をカウントしながら「入賞は10番までだからあと2人抜けばいいや」と判断したんですよね。
で、また走り出したら、ちょっと待てよ、と。「オリンピックって10位は入賞だったっけ」っと思い始めまして。「ちょっと待て、グラウンドのレースは8レーンだし、8レーンまでが入賞だ」と気付きましてね。「こりゃいけない、あと4人抜かなきゃいけない」と思いまして、それから追い上げていったというのが実情でしたね。だから目標が次から次へと変えられたというか、あるいはそういうことを考えられたというのが、幸いした、(8位の)結果になったのではと思いますね。

――

ということはゴールされた時は8位というのは認識されていたのですか。

谷口

金銀銅のメダルもいいですけど、(やった)8位入賞だ、と。これが9位で「コケちゃいました」では何の意味もない(笑)わけですよ。(メダルは無理でも)入賞するというこだわりをずっと持ちながら走っていたから、結果的には8位でゴールまで行けたと思いますね。

――

8位でゴールされた直後のインタビューで出てきた言葉が「コケちゃいました」でした。これまで、もう何度も聞かれて、何度もお答えになってきたと思いますが、改めてその時の心境を聞かせてください。

谷口

ゴールして、日本人2人は銀メダル(森下選手)と4位(中山選手)で、僕より前にいましたので、僕にインタビューが来るとは思ってもいなかったです。で、呼ばれてインタビューに行くぞとなった時に、きっと僕がなぜ8番にしかなれなかったんだろう、と国民の皆さんは思っているだろう、と。で、「すみません」と、「8位にしかなれませんでした」と、「その原因は途中で靴を踏まれてコケちゃいました」と、「それで8番がやっとでした」と、そういう思いでインタビューに答えようと思ったんですよね。ですから「コケちゃいました、これも運ですね」と言ってしまったんです。その時は、そういう思いだけだったんです。それが大きな騒ぎとなっているということを知ったのは日本に帰ってきてからで、帰ってからこっちもビックリさせられたというのが実情です。

――

接触した選手を悪く言うわけではなく、メダルを取れなかった言い訳をするのでもなく、自然と出た「コケちゃいました」の言葉に、お茶の間の国民はスポーツマンシップの原点を見たのではと思います。そして谷口さんの人柄に惚れました。

谷口

マラソンはオリンピックの最終日でしたので、次の日にバルセロナで銀メダルの森下選手、4位の中山選手、私の3人の共同記者会見があって、その日の夕方5時に、スペインからチャーター便で日本に向かったわけですよね。それで翌日の昼2時ぐらいに成田に着いたと思うんですけども、飛行機が停まると同時に機内アナウンスで「これから降ります。メダリストの方は降りたら左側へ行ってください、その他の方は右側へ行ってください」と。僕は8位ですから、(メダリストではなく)その他大勢に入りますからね、それで右側に行ったんです。
そしたら、新聞社の方とテレビカメラが付いてきたんですね。僕は「あっ、間違っている」と思って、「すみません、メダリストは向こうにいますよ」と教えてあげたんですよ。すると「いや、谷口さん違います」って。「こんなことになっています」って、日本の新聞を見せられて。「コケちゃいました谷口、なんていいやつ」と大きな見出しがあって、その下に「銀メダリスト森下広一」だったんですよ。
で、ビックリして。それからの1カ月間は、朝のモーニングショー、午後のアフタヌーンショー、これで1カ月…ずっと報道されたので、陸上競技を知らない人まで覚えられましたし、すごい反響でしたね。

例えば…その後、東京の山手線で、電車に乗って吊革につかまっていたら、僕の前のご婦人が本を読んでおられて、ちょうどタイミングよく目線があったんですよ。そしたら、そのご婦人が「あっ、アナタ、あのコケちゃった人ね」と言われたんですよ。スポーツに興味のない人まで覚えていただいたというのが、「コケちゃいました」のすごい影響力でした。これはもう、ビックリしました。

――

人生に「タラ、レバ」は禁物かもしれないですが、あの時、「コケてなかったら…」と思われたことないですか。谷口さんは前年9月東京の世界選手権で優勝されていたし、出場した3人の中では1番期待も大きかったと思います。

谷口

そうですね、実は銀メダリストになった森下広一がどこで負けたのかというのが、日本に帰ってきてから初めて分かるんですよね、映像を見て。僕は旭化成で(森下と)一緒に練習しておりましたので、勢いでいえば、森下が金メダルを取るというのは内々でもある程度予想をしていたんです。だから僕としては「森下広一に勝てば金メダル」と思って、勝つ地点はどこかな、と自分なりにリサーチしていたんですよね。
実はバルセロナ(五輪)の前に(バルセロナへ)視察に行っているんですが、そのときに「森下広一に勝つために」という戦略ノートを作ったんですよ。(レース終盤の坂を)登り切ったところで、40kmのところにちょっとした下りがあるんですよ。そこで勝負を仕掛ければ、森下に勝てるかもしれない、と。しかし付いてこられたらグラウンドで抜かれる、スピード差があるので。でも抜かれても森下が金なら僕が銀だな、という構想は作っていたんですよ。結果的に(勝負どころの)そこに、その場所にいないから、タラレバになりますけど、日本に帰ってきて森下が勝敗を付けられたところが、僕が計画していたところ(と一緒)だったんですよ。
だからもし僕がそこにいれば、(金メダルの)黄永祚(ファン・ヨンジョ=韓国)が仕掛けたら、僕は行くつもりでいましたので、僕が行けば森下も「谷口さんが行けば最後まで行けば勝てる」と思っているから、そこに行けばメダルは2つ取れたかな、というタラレバはありますよね。戦略的には間違いではなかったということは、僕自身にとっては少しうれしい気持ちになりましたね。

陸上の名門、旭化成で世界のマラソンを見た

日体大を卒業後、周囲の期待に反して教員の道を目指した谷口氏がオリンピックを目指したきかっけとは何だったのか、語っていただきました。

――

子どものころの話を少し聞かせてください。宮崎県日南市出身で、南郷中―小林高―日体大へと進学されます。陸上はいつごろから始められたのでしょうか。

谷口

本格的に長距離を始めたのは小林高校時代となります。昔は今と違って、学校体育の延長で部活があり、部活の中で担当の先生が種目を割り振るというやりかたでしたので、中学の時は陸上部と駅伝部と2つありまして、僕なんかは長距離だったので駅伝部でした。中学2年の時に指導者が変わりまして、その指導者が陸上全般をやらせてくれる指導者だったんです。僕は主に長距離をやりながら、100mだったり、ハードルだったり、走り幅跳び、走り高跳び、棒高跳び、全種目をやらせてもらいましたね。結果的には走り高跳びでも1m70飛んでいました。
その当時背面跳びというのが流行りましてね、それで。あるいは棒高跳びだったら、グラスファイバーのポールが出た当初で、それで3m近く飛んだりとか…。いろんなことをやらせていただいたんですが、その中で、長距離で進まなきゃいけないということで、(駅伝強豪校の)小林高校にいったんですね。で、小林高校では長距離の基礎的なこと、すべてを教わったということです。

――

大学は日体大に進学し、2年生から頭角を現し、箱根駅伝では6区を任され3年連続区間賞、3年と4年は2年連続で区間新記録を樹立しました。6区というと山下りのコースですが、3年間「山下りのスペシャリスト」として6区を走られます。なぜ、6区だったのですか。

谷口

日体大に入って1年生の時は大学の生活に慣れるのに必死で故障してしまい、1年の時にもう陸上を辞めようかというような段階までいったんです。けれど、なんとか持ちこたえまして、2年生になった時に、1つ上の先輩に「谷口は身体が軽いから6区なんかがいいんじゃない」と言われまして。大学では夏休み前に集団で山登りの5区と山下りの6区を同時に全員で試走会をするんですね。たまたま僕は2年生の時に下りを走りましたら、その時60分ちょっとで走ったと思うのですが、それで下りの候補に挙げられて、それでその後も6区を走るということになりましたね。あとは試走会を見て、監督が最終的には決めるという感じでしたね。

――

卒業後は陸上の名門、旭化成へ入社されます。旭化成は地元の盟主でもあり、陸上部では宗兄弟らが活躍されていました。自然な流れだったのでしょうか。

谷口

僕が日体大に行ったのは宮崎県の体育の教員、もしくは小林高校の駅伝部の監督で帰りたいという意味合いで行ったんですよ。だから僕が大学を卒業するときは、実業団はどこも声をかけてくれなかったです。なぜかというと、教員になるというのがみんな実業団の方々に伝わっていたみたいです。しかし教員採用試験を受けたら、勉強しないもんですから落ちてしまったんです。講師とか、そういう話も全くなくて。で、高校の先生に相談したら「旭化成に2年間だけ行かせてもらうようにしろ」と。そして2年の間に教員採用試験を受けて、受かれば教員の道へ…という形で旭化成に行ったんですよね。だから(実業団に)行きたくていったんじゃないんです(笑)、申し訳ないですけど(笑)。そういうふうな流れで旭化成の実業団での生活がスタートしたんです。

――

教員になるのが目標だったとはいえ、1985年の別府大分マラソンで、初マラソン初優勝。2年後の87年東京マラソンで優勝、同年ロンドンマラソンでも優勝して注目されます。80年代の男子マラソン界は宗兄弟を始め、瀬古さん、中山さんらスター揃いで、谷口さんもそこに入って男子マラソンの人気はすさまじかったです。

谷口

実は、別府大分マラソンで優勝して、その優勝を手土産に再び教員採用試験を受けたんです。しかし、それが手土産にならなかった(笑)。あるところでは「旭化成でマラソンで成功したので、宗兄弟の後はもう谷口しかない」とか、「教員よりもマラソンの方がいいんじゃないかと県も考えたんじゃないか」とか…そんなウワサが流れたりして(笑)。で、高校の恩師に相談して「僕はマラソンでオリンピックを目指します」と言ったんです。そばに宗兄弟がいましたので「この人たちと練習で同じことができれば、僕もオリンピックに行けるだろう」と。そういう単純発想で「教員を諦めて、オリンピックへ」と。
現代なら(スポーツをしている)小さい子にインタビューすれば「オリンピック目指します」と答えるじゃないですか。僕の場合は、オリンピックは25歳で初めて「じゃ、オリンピックを目指しますか」となったんです(笑)。でもその時に良かったと思うのは、近くにオリンピック選手がいましたので、この人たちと同じことができればオリンピックに行けるという発想をしたことですね。ものごとは、ものまねからスタートするとよく言われますけど、宗兄弟のやることをやれば、という単純発想だったんです。そしたら世界のマラソンが見えてきた。宗(兄弟)さんとか、瀬古さんとか、中山さんとか…とても太刀打ちできる立場でもなかったのが、どうやったら太刀打ち出来るかというスタートに立てたことが大きかったし、そこから始まったという感じですね。

失敗こそ振り返り、次の勝ちへつなげる

数々の好成績を残してきた谷口氏が、日々から意識して取り組んでいたことや大事に感じている思いについて語っていただきました。

――

オリンピックは2回出場してバルセロナ8位、アトランタ19位。97年に37歳で引退されますが、12年間21度のマラソンで、優勝7度、2位3度、2ケタ順位はアトランタ五輪19位の1度だけ。レースに出ればいつも優勝争い、大崩れはほとんどありませんでした。

谷口

1つ1つ(のレース)をきっちりやれたか、やれなかったか、ということに関しては、やれなかったことの方が多いんです。優勝した時は、その(優勝の)ことは自分の中では忘れようと思ってやってきましたね。なせかというと、失敗の方をちゃんと振り返っておかないと、次の勝ちにつながらないからなんですよ。勝つというのはやっぱり稀なことなので、それよりもなんで失敗したのかということを振り返り、緻密に残しておくということが現役時代からの自分のやり方だったですね。そういう点が、結果的には、マラソンを走れば安定した記録につながったんじゃないかと思います。

――

引退後は陸上の指導者となられます。旭化成、沖電気、東京電力など実業団のチームで指導後、2011年に東京農大の陸上部助監督に就任、同大学の准教授となって教鞭もとられました。かつて高校の教員を目指された谷口さんですので、教育に携わることができたこともうれしかったのではないですか。

谷口

結果的にはマラソンをやった延長線上に、昔、目指していた教員の道までつなげることが出来たのかな、と。僕の人生にとっては、いい寄り道じゃないけど、教員になりたくてなれなかったけども、マラソンをやることで逆に教員の道が開けてきたのかな、と。教員になる前に、マラソンで世界へいろいろ行かせていただいたので、もう40年前の話ですけど、その40年前のことは現在でも話せたり、活かせたりできるということは、遅く教職に着かせてもらうこともすごくいいタイミングだったな、と。
何も無くて教員になって、教員になってからいろいろなことを調べたり、経験して実際に教えていくよりも、いろんな経験をして、その延長線上でこういうことがあるよ、こういうことになるよと教える立場になる方が僕にとっては幸いだったのかな、と思いますね。またそういう期間を与えていただいたというのは、何かないと与えていただけないので、時代とともにどんな人に出会うか、また出会った人がどんな影響を与えてくれたかは、すごく大事じゃないかと感じます。

講演で伝えたいこと

これまでも多くの講演等で自身の経験をお話されてきた谷口氏が、講演を聞きにこられた方々に1番伝えたいことについて語っていただきました。

谷口

マラソンをやってきて大事なことは何かというと「探究心」と「執着心」。この言葉が大事じゃないのかなと思っています。その中で「当たり前のことをいかに当たり前にやれるか」ということが大事じゃないかな、と。特に長距離は一瞬の心のスキだったり、肉体のちょっとした痛みだったりで、42.195kmも走るので、それがちょっとしたことでダメになるんですよね。普通にしていて、普通のことをいかに続けるかということは大事なので、そこを基本に「探究心」と「執着心」をどうやって乗っけるか、と。そこにいきつくには何が大事かというと、「規則正しい生活習慣を身に付けよう」ですね。なかなかこれは簡単なようで難しいですが…。
僕の話で申し訳ないけども、最初20歳で教員になりたいと思っていたけれどなれなくて、60歳近くになって40年もかかってそこに行き着くということもあるので、やっぱり諦めないということ、どこか心の中にあることの延長がどこかにつながっていれば、そういう機会に恵まれたり、あるいは恵まれないかもしれないですけど、そういう気持ちを持ち続けることは大事なんじゃないかな、と思います。

――

下世話な質問で申し訳ないですが、もう一度生まれ変われるとしたらどんな人生を歩みたいですか。

谷口

こんな人生を歩みたいというのはありません。今回みたいに人との出会いで、教育者との出会いで、マラソンという道が開けたので、またマラソンに出合うことがあればマラソンをやっていると思います。しかし影響を与えてくれる人が別なことをやっていて、それに僕が興味を持つんだったら、そっちに進んでいると思います。そこに何がそうさせるかというと「探究心」と「執着心」ですね。それがあればどこへでも進めると思うんですよね。最初から決めて「そこ」じゃなくて。

――

最後に講演を企画されている主催者さまにメッセージをいただけますでしょうか。

谷口

僕は陸上競技のマラソンを通じて、こうして講演をするような機会をいただいております。ただ走るだけなんですけど、日常での体調管理、安全第一というのが1番です。安全第一の中には、早期発見、早期治療というのが1番大事になってきます。早期発見、早期治療というのは普段からやって取り組んでいないとなかなか見過ごすことが多いので、是非、そういう点を踏まえまして講演させていただけるとありがたいです。よろしくお願いいたします。

――

長時間ありがとうございました。

マラソン元日本代表金メダリスト 谷口浩美氏インタビュー

谷口浩美 たにぐちひろみ

マラソン元日本代表

1960年4月5日、宮崎県生まれ。小林高で77、78年に高校駅伝連覇。翌年に入学した日体大を経て、旭化成に入社。その後、85年の別府大分で初マラソン初優勝した。 87年東京国際、ロンドンで優勝。88年の北京国際では2時間7分40秒の好タイムを記録し、準優勝(タイムは日本歴代6位)。91年世界陸上では日本人初の金メダルを...

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