講演会講師インタビュー|一軍登板のないままプロ野球界を引退し、アルバイトで生計を立てながら難関国家資格に挑戦し見事合格。公認会計士として活躍する奥村武博(おくむらたけひろ)氏にインタビューをしました。
苦悩とチャレンジを経て得た2つの肩書
プロ野球選手、公認会計士という難しい挑戦を見事突破された奥村氏。ご自身の希少なキャリアについてお話しいただきました。
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昨年阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝(日本一)を果たしました。OBの一人として、優勝の瞬間、どんな思いでご覧になられましたか。
奥村
去年の優勝はただ単に喜ばしく(笑)、うれしく、見ていました。18年前の優勝と比べると去年の方が素直に喜べたというか…微笑ましく見られたという感じです。
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奥村さんをご紹介する時は、「元阪神タイガース投手で、現在は公認会計士の奥村さん」という表記が正確で分かりやすいと思うのですが、「元プロ野球選手」と「公認会計士」、ご自身にとって、それぞれどういう重みを持った肩書きでしょう。
奥村
自分にしかない、オリジナルの肩書きというか、キャリアの説明としては分かりやすいものと思います。オリジナリティーがあるということと、自分が今まで生きてきた軌跡といいますか、キャリアを端的に証明してくれる、それがこの2つの肩書きだと思っているので、自分の中でも1つの誇りとして、胸を張って生きていける、人にお話できるキャリアの1つかなと思っています。
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「公認会計士」は、「医師」「弁護士」と並ぶ3大難関資格の1つで、昨年度の合格率は7~8%の超狭き門です。一方で高校・大学からプロ野球選手になれる確率は0.16%と言われ、プロ野球選手を目指すのは東大に入るより難しい挑戦です。その両方の難関を突破された奥村さんは、ある意味、大谷翔平級の超スーパーマンだと思うのですが、ご自身にその自覚はありますか。
奥村
ハハハハハ…自覚というか(笑)、キャリアが希少だという意味では、自分の特色かと思っていますし、チャレンジした結果としてその2つにたどり着いたというか、得られたと思いますので、そういう意味ではチャレンジした結果の1つとしては分かりやすくていいと思います。何ごともチャレンジしてみないと、どうなるか分からない。やる前から諦めたらいけないといった、1つの証明といったらちょっとおこがましいですが、そういうものにつながるのかな、と思っていますので、そういう意味ですごく分かりやすくていいなと思っています。
野球をはじめたきっかけとは
野球をはじめたきっかけ、そしてプロ野球選手という夢を叶えた当時のエピソードをお話しいただきました。
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奥村さんの人生を少し振り返らせてください。まずは野球ですが、いつ、どんなキッカケで始めたのでしょう。中学・高校時代の夢はやっぱり甲子園出場だったのでしょうか。
奥村
始めたきっかけは、兄が野球をやっていまして、父がその野球チームのコーチをやっていたということで、もう物心ついた時から野球が身近にあって、父や兄と遊ぶ時はキャッチボールやったりですとか、バッティングやったりですとか、まあそういう環境だったので、知らず知らずに野球に出合っていたなという感じで、小さい時から身近なものでした。
小学校2年から地元のチームに入って、野球を続けてきたんですけども、やっぱり中学、高校の時の夢というのは甲子園に出場したいという、まあその一心でした。ですので、高校選択というのも「甲子園に出たい」というのがあって、それで「この学校に行きたい」というのがあって、本当に野球少年というような、イメージ通りの小さいころだったと思います。
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高校野球では甲子園にはあと一歩及ばずで、ただ当時の活躍がタイガースのスカウトの目に止まり、ドラフト会議で指名を受けます。ドラフト6位とはいえ、憧れのプロ野球選手、人気球団からの指名、指名を聞いた時は夢のような瞬間だったのではないですか。
奥村
高校(3年)の夏の大会が終わるまではスカウトの方が見に来てくださっているというのは全然知らなかったのですが、3年の夏に引退して秋口ぐらいにタイガースのスカウトの方から監督を通じて「指名を考えている」という話をいただいたんです。
幼稚園のころは、将来の夢を色紙に「プロ野球選手」と書いていたぐらい、小さいころからの憧れであったので、そういう道のチャンスを得られたというのはものすごく胸躍るといいますか、ちょっと信じられない思いでした。実際、ドラフト当日に指名されたと聞くまでは、(指名の話は)ドッキリなんじゃないか(笑)というぐらい、半信半疑であったことは事実です。もう、本当にうれしい瞬間でした。
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憧れのプロ野球生活は苦難の連続でした。1年目から右肘痛などのケガに悩まされ、2年目、3年目もリハビリ、さらに肩や肋骨など新たなケガに見舞われ、結局一度も1軍昇格することなく4年目のシーズン終了後に戦力外通告を受けました。勝負の世界の厳しさを痛感した瞬間だったと思いますが…。
奥村
通告を受けた瞬間というのは本当に頭が真っ白になって…。通告を受けるまで、呼ばれた瞬間までの記憶はあるんですけど、通告された後の記憶というのが無くてですね。知らない間に、気がついたら自分の寮の部屋に戻っていたという感じでした。何となく自分としても「今年危ないかな」というのはあったものの、実際に戦力外通告っていう、「来季は契約しない」っていう、あの短いフレーズで、あれだけ憧れたプロ野球人生があっけなく終わってしまったというのは、相当な衝撃でした。頭が真っ白になるぐらいの印象という感じですね。
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球団が用意してくれたのは打撃投手の仕事でした。しかし、それもわずか1年で解雇。向き不向きというより、おそらく気持ちの切り替えが出来ないままの1年だったのでしょうか。まだ22歳。いよいよ無職となった時はなかなか厳しい状況だったかなと思いますが…。
奥村
現役の時の戦力外通告よりも、1年後の打撃投手の解雇の方が、実はちょっと驚きだったというか…まさか1年でクビになるとは思っていなかったですね。ただ思い返すと、自分の中では折り合いがついていなかったというのがあって、現役に未練を残しながら打撃投手をしていて…。
それまで(現役時代は)抑えるつもりで投げていたものが、(打撃投手は)気持ちよく打ってもらうために投げるという、同じ投げると言っても、目的が変わると頭と身体のバランスがついていかなくてですね、どこかで気持ちよく打ってもらうと「イラッとくる自分」がいたりもして(笑)。それで抑えたくなって無意識のうちに、際どいコースを狙ったりですとか、力が入ったりとかがあったんじゃないか、と思っています。なので投げ方のバランスを崩してしまって、いいパフォーマンスができてなかったというのは、後になって自分でも振り返って思うんです。けど、とはいえ、1年でクビになるとは思っていなかったので、すごく驚きの方が強かったですね。
22歳で野球界から出る選択をしたんですけど、なんとなく1年でクビになったというのが…。(球団の方からは)「打撃投手を他のチームで探してあげようか」という話もいただいていたんですけども、なんとなく1年でクビになるとなると、将来的に打撃投手を続けていてもまたどこかでクビになるタイミングが来るんだろうな、と。クビというか、解雇というか、キャリアが終わるタイミングが来るんだろうな、と思ったので、そうであれば22、23歳といえば、大学を1浪して卒業したぐらいの年と同じと考えたら、早い間に野球界以外の選択肢にチャレンジした方が、何かまた別の道が開けるかもしれないな、と。
当時にしてみればただの強がりだったかもしれないのですが、そういう思い切った選択で野球界にしがみ付かなかったのが、結果良かったのかな、と。当時はそんな、淡い期待ではないですけど、そういう意味で、野球界の外に出て、まあ何でもできるんじゃないか、そういう思いがあって(野球)外に出たという、そんな印象だったですね。
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ご家族や地元の知人たちは大変心配されたんじゃないか、地元帰ってきたらというようなこともあったと思いますが…。
奥村
そうですね、両親なんかは「1回実家に帰ってきてゆっくり考えたら…」みたいな話を言ってくれてはいたんですけど、なんとなく自分の中で、「高校から初めてのプロ野球選手誕生」とか、「地元から久し振りのプロ野球選手誕生」とか、かなり盛大に送り出してもらったじゃないですが、そんな中で何も成し遂げないまま実家に帰る、地元に戻るというのが、なんとなく自分の中で抵抗感がありまして。ただの見栄っ張りと言われればそうかもしれませんが、なんとなくそういう負けたまま地元に戻りたくないなという思いもあったので、「何かしら次のキャリアでまたもう一度、花を咲かそう」じゃないですが、何かできないかと思って大阪にとどまって模索していました。
何者かになるための選択肢
野球界を離れた後の自身のキャリアや当時の心境についてお話しいただきました。
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野球界を離れた後は、知人のバーを手伝ったり、専門学校で調理師免許を取ってホテルの調理場でアルバイトをしたり…飲食系で何か次の仕事を見つけていこうという感じだったのでしょうか。
奥村
当時は飲食系で将来的に自分の店を持って大きくチェーン展開していくですとか、そういう方向で何かできたらいいなと思っていたんですけども、しかし大きな志があってそこにいったのかというと、実はそうではなかった。今振り返ってですけども、自分の中で選択肢がその頃は飲食業界しかなかったというのが正直なところだったなと思っています。それ以外の仕事というのも、世の中にどんな仕事があるのかということも知らなかったですし、その中で野球界のちょっと身近にある業界が飲食業界で、当時野球選手辞めたら飲食業界に進む先輩たちも多かったというのもあるので、なんとなく流れで飲食業界に進んでいったな、と。
飲食業界というのも、もっと奥深い業界ですし、簡単に誰でも成功できるような世界ではないと思うんですけど、厳しい世界に飛び込んでもう一度チェレンジするというよりかは、なんとなく流されていったなというのが正直な当時の感覚だったなと思います。
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その頃、大阪の街はタイガースの18年ぶりの優勝で沸き返っていました。優勝の立役者となったエース井川はドラフト同期で20勝5敗の驚異の成績でタイトルを総なめしていました。一方、奥村さんは調理場のアルバイトで悶々とされていたとのこと。ドラフト2位と6位の違いがあるとはいえ、残酷なコントラストだったと思います。
奥村
そうですね、同期の井川の活躍というのは、喜ばしい半面はあるんですけども、画面を通してそれを見ている自分という、井川との立ち位置のコントラストですよね、自分はあくせく働いて野球界じゃない世界で働きながら…彼はスポットライトを浴びながらチームの中心として、当時は日本を代表するピッチャーになっていってたんですけど、同期入団、同じ高卒で入って、同じスタートラインに立っていたのに、数年、5~6年で「この差って何なんだろうな」っていうところで、かなり知らない間にストレスも抱えて、まあ(頭の左上の)ここらへんに500円玉ぐらいのハゲが出きたぐらい、ストレスを抱えていたんですけど、やっぱりそこで比較して「今、自分って何をしているんだろう」「この先、自分ってどうなっていくんだろう」っていうことで、1番自分のしんどい時期だったですね。
でも、大阪にいたので、町は沸き返っている、周りの方々もやっぱり喜んでいる、そんな中で自分は元阪神ということを知られたくないという気持ちの方が強くてですね、履歴書にもそれを書かずに(言わずに職場へ)いっていました。周りからも気付かれるような選手でもなかったので、知られないまま(職場へ)行きながら、周りがタイガース優勝に沸く雰囲気を見ていて、全く優勝したことを喜べなかったですね。人生で1番辛い時期だったかもしれないです、そのタイミングは。
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そんな奥村さんから離れるのではなく、逆に向き合ってくれたのが当時付き合っていた彼女、今の奥さんだったということですが…。アルバイトから帰ってきたら、机の上に「資格の本」が置いてあった、それが奥村さんの人生を変えることになると思うのですが、その話、詳しく教えてください。
奥村
当時、本当に周りの環境はタイガースの優勝で沸き返っていて「自分って何者なのか」「この先どうやって生きていくんだろう」みたいな焦燥感しかなかったんです。けれど、じゃどういうふうに巻き返していこうか、その環境を変えていこうかと思った時にどんな道があるか、世の中にどんな仕事があるのかも分かっていないという状態で、飲食業もバーとかそういったものがうまくいかないのなら、今度は「カフェをやってみるか」だとか、結局知っていることが少ないので、飲食業界の範疇からしか考えることが出てこなくて。飲食業が「良い、悪い」と言う話ではなくて、そこの選択肢がすごく狭い中でしか考えられていなかった自分というのを見ていて、当時の彼女が「資格ガイド」という本をくれたんです。
資格を「取る、取らない」という話ではなく、まずその少ない選択肢を広げようと、世の中にはこんなにたくさん仕事があるから、飲食業界以外でも、僕に向いている仕事だったりとか、情熱を捧げられれる仕事がほかにあるだろう、そのためには視野を広げる必要がある、それに1番分かりやすい、サンプルになるのが「資格ガイド」っていうことで、その本をもらったんですよね、視野を広げるという意味で。
1000以上の資格が載った分厚い本を渡されて読んでいくんですけど、本当に驚きましたね。医者とか弁護士とか難関資格みたいなものはトップページで巻頭カラーを飾ったりしているんですけど、そんな中でヒヨコの雄雌を鑑定する資格があったりですとか、こんなことも仕事になっているんやというぐらい、いろんな資格がある、仕事があるんやな、と。それを読むことで、知ることが出来ましたし、なんか視野が広がったなという感覚でした。その中で出合ったのが公認会計士の資格だったんです。(最初に本を)1回広げた中で見つかったというのも自分のキャリアの中で大きな転機になったかなと思います。
公認会計士にこだわった理由
公認会計士という難関の国家資格取得に向けて勉強をはじめられた当時についてお話しいただきました。
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それから猛勉強…と言うのは口では簡単ですが、合格までの9年間はある意味、野球よりも辛い日々だったのではと想像します。
奥村
(公認会計士の勉強を)始めることを決めた瞬間というのはもちろん、合格率が10%近くで、三大国家資格の1つで、最難関資格の1つですよというのは読んでは知っているんですけども、なんとなく自分が野球をやってきた中で、プロに入れた、狭い門をくぐり抜けたというのはあるんですけども、高校時代に甲子園を目指した経験というのもすごく大きかったなと思っていまして。岐阜県の中で甲子園を目指すといっても、60数校ある中で、1校を目指すというのは冷静に考えると何%なのって思うと、10%よりも圧倒的に低いわけじゃないですか。そこの少ない可能性を疑わずに高校3年間情熱を捧げられた自分というのが居たなということを思い出した瞬間に、合格率10%というのがそんなに低い数字とは思えなかったというのもあるんですよね。過去の自分の経験を数値化して捉え直した瞬間の感覚だったりですとか、あとは10%といっても1000人近く受かる、そういう感覚の捉え方みたいなのが背中を押してくれた。
あとタイミングとしても抜群のタイミングだったと思っていまして、公認会計士試験というのは、もともとは大学で何単位かをとっていないといけないですとか、受験するための要件というのが決まっていたんですけども、僕が公認会計士試験の存在を知ったのが2004年で、その2年後から受験資格が撤廃され、誰でも受験できるようになるという、ちょうど制度変更のタイミングだったんですよね。そのタイミングの良さに、まさに自分のための制度変更ぐらいな縁の良さを感じまして、これはもう目指すしかないな、と。
とはいえ、難しい資格なので、(岐阜県立土岐商業)高校時代に多少簿記の経験があったとはいえ、(卒業して)6~7年経って勉強のクセというのが付いてなかったので、まずは机に向かうクセ、テキストを読むクセ、長時間集中するクセというのを立て直すというか、作り上げるというのが非常に大変だったと思いますし、経済的にも受験勉強に専念できる環境でもなかったので、働きながら勉強を続けないといけないというところで、仕事との両立という部分でもかなり苦労したなというのは印象としてあります。
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合格までの道程も決して順風満帆ではなかったと思います。大学受験でいうと、いわゆる9浪ですよね。その間に簿記1級も取られるなど会計の知識はかなり深まり、一般企業の経理担当で就職もできたと思います。でも、公認会計士にこだわった。それを貫かれた。何がそこまで奥村さんを頑張らせたのでしょう。
奥村
そうですね、9年受からなかったということで、途中、道を変えようと思ったこと、公認会計士受験をやめようと思ったことも何度もありました。それまでに日商簿記1級受かったりですとか、税理士試験の簿記論が受かったりですとか、公認会計士にはたどりつかないんですけども、その間で、それなりに会計の資格としては結果を出しながらきていたので、それをもとにコンサルティングだったり、経理の仕事だったり、道を変えようかなと思ったこともありました。
けれど、そこで道を変えようとしたときに、「覚悟を決めないといけない!」「このまま逃げ出してたら人生ろくなことがない!」「野球も中途半端でクビになり、公認会計士試験も中途半端で道半ばで諦めて次の道に進んだところでこの先そんな人生を歩んでいたら逃げ癖がついてどうしようもなくなる!」「そんな道半ば諦める人間にコンサルしてもらいたいと思う人間が、誰がいるねん!」みたいなことを、かなり強い口調で妻に叱咤激励じゃないですけど、逃げだそうとしている自分を見透かして、あえて厳しい口調でそこにブレーキをかけてくれたっていう、まあそういう存在がいたので、そこで思い直してといいますか、改めて覚悟が決まったというか「受かるまでやめへん」と腹をくくれたということが1番大きかったかなと思いますね。
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2013年11月、「平成25年公認会計士試験」の合格者一覧に、ご自身の受験番号が載っているのを確認した瞬間の気持ち、教えてください。
奥村
もう、ひと言で「ホッとした」という感じですね。うれしいと言うより何よりもこれで受験勉強終わったっていう、「ホッとした」というのが1番最初にきた感覚でした。
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監査法人での実務を終えて公認会計士と認可されたのが2017年…。今は公認会計士としてキャリアを積み上げている最中だと思いますが、一方で異色のキャリアを生かした奥村さんにしか出来ない仕事も当然あって、それが「一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構」の設立ということだったのでしょうか。設立の経緯、思いを教えてください。
奥村
自分自身、野球をやめた時に自分は野球しかしてこなかったから、それ以外のことは何も出来ないんだ、みたいな思い込みがありまして、それで次のキャリアに進むことに失敗したというか、うまく引退後のキャリアを築けなかったなという、後悔みたいなものがありまして。そういうスポーツ選手、自分に限らず、ニュースとかでも戦力外になった選手がその道、その先に苦労するという話はよく聞く話でもありますし、なんかそういったスポーツ選手のキャリアというところに、何か自分の経験が生きないか、サポートできないかなと常々思っていまして。公認会計士試験にチャレンジした理由の1つも、プロ野球選手から公認会計士になった人が誰もいなかったという、そういう事実もあるので、そういったことに自分がチャレンジすることによって、何かしらキャリアの選択肢を広げられるような、そういう存在になりたいなという思いがあったというのがチャレンジした理由の1つでもあったんですね。
そういう思いがあったので、そういう経験を伝えられるような活動をしていきたいな、と。公認会計士の受験勉強は長くかかったんですけども、その長くかかった故にいろいろ試行錯誤して、いろんな考え方を熟成させていった結果、スポーツで学んできたことと、受験勉強で成績を出すというようなところにすごく共通点があるなということに気が付いたんです。目標定めてそこにたどりつくために、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら成長させていくというプロセスは、対象がスポーツなのか、勉強なのかというだけで根本的な部分って何も変わらないな、と。そこの共通点が見つかった時に、自分の公認会計士の受験勉強も一気にガッと伸びたという、そういう体験があったので、何かそういう、そのスポーツをやっていたことって、それ以外のことに対して無駄にならないんだよ、逆にそれ以外のことにつながるためにはスポーツってもっと頭を使いながら、考えながらやるべきだと、なんかそういう後悔みたいなものも同時に生まれてきたので、自分の経験値で考えたこと、気付いたことをスポーツ界に還元していきたいなという思いがあって「アスリートデュアルキャリア推進機構」というのを立ち上げたということですね。
講演を通して伝えたい「自分の可能性を自分で閉ざさない」
講演でお話しされていること、聴講者に伝えたいことについてお話しいただきました。
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講演活動も積極的に行われていると思いますが、確かにリアルに自身の体験を伝えていく場は大変重要な仕事、使命のようにも思います。講演を聞きに来られた子どもたち、学生、若い社会人の皆さんに、1番何を感じてほしいと思ってお話されていますか。
奥村
よく講演の最後で「世の中で唯一、絶対に超えられない壁」というお話をさせていただくんですけども、その壁って何なのか? っていうと「自分で作った壁」だと思うんですよね。自分自身で「もう自分にはこれしかできない」とか、「もうこういうことは無理だ」というふうに壁を作ってしまうと、先に進めない、絶対に超えることはできない。逆にいうと、そういう制限さえ自分にかけなければ、自分で自分の可能性を閉じなければ、いろんなチャンス、可能性っていうのは、広がっているんだ、そういうことを感じてもらいたくて、いつも最後にお話させていただいております。
やっぱり自分自身も、公認会計士の勉強しているとき「高卒の元プロ野球選手が公認会計士試験なんか絶対に受かるわけない」っていうことを周りからも散々言われてきたんですけども、結局合格にたどりつけたというのは時間がかかっても「自分は必ず合格できるんだ」と、自分自身が絶対に合格できないと思ってしまっていたら、もうそこで受験を諦めていたと思うんですけども、そうじゃなくて「自分は必ず合格できるんだ」と、そのためには「じゃ、どういうふうに今のこの状況を改善していったら合格にたどりつけるんだ」っていうことを思っていたからこそ、合格にたどりつけたと思うので、そこで自分が諦めなかったということが非常に重要だったと思います。なので、そういったことを自分の経験から感じとってもらって、おのおのそれぞれ自分のこれから先、いろんな壁にぶちあたると思うんですけども、そういったところも諦めることなく可能性を広げていってもらえたら、そういうことを感じとってもらえたらな、というふうには思っています。
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最後に講演会を企画しようとしている主催者さまへ向け、メッセージをお願いします。
奥村
元プロ野球選手という部分と、公認会計士という、この2つの両サイドだけ切り取られますと、きっと違った印象になるのかな、というふうに思っていまして、自分の中で自分の価値としては、やっぱり公認会計士試験に長く苦しんだということと、プロ野球選手として結果がでなくて、戦力外通告になりましたと、そこからまた新たな目標を見つけて、公認会計士という、そこにチャレンジをして、そこにたどりついた、そこの軌跡の部分っていうのがおそらく自分の1番の価値かなというふうに思っていますので、是非そういった肩書きからは見えない部分の私の経験をお伝えできたらなというふうに思っています。是非、企画検討していただけたらなと思っています。
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長時間ありがとうございました。
元阪神投手・公認会計士 奥村武博氏インタビュー
奥村武博 おくむらたけひろ
公認会計士、元阪神タイガース投手
1979年7月17日、岐阜県生まれ。土岐商3年夏の岐阜大会では、決勝で県岐阜商に敗れ甲子園出場を逃す。 日商簿記検定2級合格が公式戦出場の条件となっていたため、試合に出たい一心で2年時にこれを取得。3年秋の97年ドラフト6位で阪神に入団した。同期に1位中谷仁(智弁和歌山)、2位井川慶(水戸商)、4位坪井智哉(東芝)らが...