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講演会講師インタビュー / 野球評論家 中西清起 氏

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講演会講師インタビュー|83年ドラフト1位で阪神タイガースに入団し、85年のリーグ優勝では胴上げ投手に。引退後は、阪神タイガースの投手コーチを務めたほか野球評論家として活躍の、中西清起(なかにしきよおき)氏にインタビューしました。

目次
  1. 阪神OBが語る!タイガース18年ぶりのリーグ優勝
  2. 中西清起氏、野球人生を振り返る
  3. 野球評論家、プロ野球コーチとして
  4. 講演会やトークショーで伝えたいこと
  5. 未来の子どもたちへ残したいもの

阪神OBが語る!タイガース18年ぶりのリーグ優勝

18年ぶりの阪神タイガースリーグ優勝に、OBとして心情を熱く語っていただきました。

ーー

タイガースが18年ぶりにリーグ優勝を果たしました。元胴上げ投手として、OBとして、どんな気持ちですか。

中西

いやぁ…岡田監督の名采配というか、素晴らしいですね。打つ手、打つ手が決まっていくというか、2004年からコーチで岡田監督の下でやっていたし、そういう意味でも岡田監督の気持ちが分かるんで。野手、投手を固定して、選手に責任感を持たす…という野球。
コーチ陣もそうですが、選手に言い訳できるシチュエーションを作ってはいけない、と口酸っぱく言っていましたからね。「内野手がライトをたまにやって、内野に戻ってサードでエラーしてもしょうがないやんか、そういう言い訳できるシチュエーションを首脳陣は作っちゃいけない」というのを、口酸っぱく言っていましたからね。

ーー

前回優勝した18年前の2005年、中西さんは1軍投手コーチとして岡田監督を支えました。

中西

今回は選手とは年齢的に離れていたので、どんな野球をするのかなと思っていたんですけど、意外とガッツポーズをしたり、笑ったり、1回目よりかなり肩の力が抜けているのかなという感じがしましたね(笑)。

ーー

1985年はリリーフエースとして胴上げ投手に、2005年は投手コーチとして優勝、今回はネット裏からでした。長かったですか。

中西

18年の間にいろんな思いというか…ですね。岡田監督がやめた後、監督(真弓監督、和田監督、金本監督、矢野監督に)が替わって、野球そのものも変わって…18年…ですからね、長かった。岡田監督はネット裏から「こうやればいいのに」って、いつも言っていた。外から見ていて歯がゆかったのでは、と思いますね。

ーー

前回の優勝との違いは。

中西

あの時は(星野監督で18年ぶりに)2003年に優勝した直後で、(2005年の優勝は)今年のような、これからできあがる若手のチームじゃなく、どちらかというと出来上がったチームでしたからね。ピッチャーでも井川という絶対的な20勝ピッチャーがいたし、リリーフ陣もJFK(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)という鉄壁のリリーフ陣がいたわけで、野手も金本、矢野、今岡…と揃っていた。2005年のチームと今回のチームは、全然違いますからね。

ーー

胴上げのシーンを見ていて(自身胴上げ投手としての瞬間を)思い出しましたか。

中西

あの(85年のリーグ優勝の瞬間の)シーンは今も忘れられないですよね。あれがあって、オレの今があるようなもんですからね。あのシーズンこそ、(今回以上に)21年ぶりなんで、ファンも待たされた思いがあっただろうし。(優勝を決める)最後の神宮は9割ぐらいスタンドは黄色でしたからね。(ヤクルトを応援するファンが)傘を差しているのは1割ぐらいで(笑)。ここで抑えなきゃ、球場のお客さんみんな敵に回しちゃうというプレッシャーがありましたね。今回胴上げ投手の岩崎も同じように、それぐらいのプレッシャーがあったと思いますよ。ここで逆転でもされたら、お前のせいで胴上げ見られなかったじゃないか、となるので。

ーー

大舞台を何度も経験されてきた中西さんでもですか。

中西

さすがに、足が震えましたね。9回はそうでもなかったんですが、9回投げ終わってベンチ帰ったらマネジャーが「引き分けでも優勝」と言うので…そうなんや、と思って10回投げにいったら、めっちゃくちゃ緊張して。さすがに、足が震えてました。だから(今回の)岩崎も同じやったと思う。特に今回は甲子園だし、相当プレッシャーがあったと思う。ヒヤヒヤもんで逃げ切ったと思いますよ。

中西清起氏、野球人生を振り返る

自然豊かな四万十での生い立ちをはじめ、野球漫画「球道くん」の水島先生と出会った中学時代、エース4番で活躍し甲子園出場を果たした高校時代。そして阪神ドラフト1位でプロ入りした後のエピソードなどを語っていただきました。

ーー

中西さんの野球人生を少し振り返りたいと思いますが、中西さんと言えば、野球漫画「球道くん」をイメージします。

中西

(故)水島先生ですね。先生との出会いは、中学の時に急に授業中に訪ねてきてくださって。校長先生に呼ばれて…当時南海(ホークス)が中村(現在の高知・四万十市)でキャンプやっていたからだと思うんですが、キャンプ地の近くの中学で中西といういいピッチャーがいるよと聞いたみたいで…。球道くんの連載が始まった時で、会いたいということで来てくれたようなんです。
校長室に入って水島先生を見ると、「あぁ、この人、ドカベンの漫画の人だ」と思って…(笑)。すぐ(水島新司氏の風貌が独特なので)分かるじゃないですか。すると「君か、中西君は」って言われて。その時に「高校はどこへ行くんだ」って聞かれたから、「高知商業です」と言ったら「じゃ、甲子園で会おう」って。それで本当に甲子園で会って。1番ブレークしたのは2年の春じゃないかと思います。浪商と試合があって、浪商ドカベン(香川伸行氏)と球道(中西清起)の対決って新聞の一面で出て、それで球道くん、球道くんと言われるようになった感じですね。

ーー

高知県宿毛市出身ですが、宿毛というと…四万十川が近くにあって自然豊かなところですね。

中西

自然はいっぱいありますよ(笑)。自然だけは。他は何もないです(笑)。当時は電車もないし、瀬戸大橋もないし、電車も中村まではありますが…、今は四万十市っていうのかな。自然豊かなところです。

ーー

ご自宅から四万十川は近いのですか。

中西

四万十川の下流なら(実家から)徒歩20分ぐらいでしょうか。遊びといえば、野球か、海で遊ぶぐらい。海でサカナ突いたり、川でエビ取ったり…川遊びしたりとか。

ーー

どんなお子さんだったのでしょう。

中西

家でじっとするタイプではなかったですね。野山を駆け回るというか。当時の遊びとは…やっぱり野球でしょうね。勉強も普通に遅れない程度にやりましたよ。いちおう、高知商は公立なので、試験受けないと入れないんで、ね。普通に勉強してました(笑)。

ーー

高知商に進学されて、甲子園には4度出場し、3年の春に選抜で優勝。エースで4番でしたね。

中西

2年の夏だけですね、甲子園に行けなかったのは。中学時代に他の中学のエース級らが、中西が行くとこ(高校)に行こうって高知商に集まったんです。そのころのレギュラーで、捕手以外は野手8人全員が中学ではエース(投手)だったですね。集まったというか、それに学校数も高知県は少なかったし。当時は20校ぐらいしかなくて、4回勝てば甲子園行けるって感じでしたね。

ーー

地方なので強豪校と練習試合をするのも大変だったのでは。

中西

行けても隣の県ぐらいですね。池田高校とか、徳島商業とか。でもセンバツ優勝した後は全国あちこちから声がかかって、引っ張られましたね。センバツ後はよく遠征に行きました。大分の高校で、チャーター機を出してくれたこともありました。高知―大分は航空便がなかったので、チャーター機で行ったんですよ…すごいですね。

ーー

高校を卒業してプロ入りする気はなかったのでしょうか。

中西

3年の時はプロのスカウトも挨拶にきてましたからね。ただ当時は高知商といえば、明治(大学)とはかなりつながりあったので、3年夏が終わったころは明治へ行こうと考えていたんです。でもドラフト前になって、阪神、中日で指名かかればプロに行きたいなと思い始めて、相談すると…、ドラフトと大学の推薦とテンビンにかけるなら明治には来んでええというふうになって、ですね。
その後、法政(大)という話もあったり…したんですけど、まあいろいろあって、最終的にはドラフト前にプロ入りも断って、大学進学も断念して、それで社会人(野球)に決まったというか。挨拶にきていた球団にはドラフトで指名しないでくださいと言って断りました。進路についてはいろいろあったけど、大人のしがらみもあって、それで社会人(リッカー)野球に行くことになったんです。

ーー

リッカーを経て阪神にドラフト1位で入団。1年目33試合に登板。2年目の85年、バックスクリーン3連発で有名な4月17日の巨人戦でリリーフしてプロ初セーブ。あのメモリアルゲームは中西伝説の始まりでもあったのですね。

中西

あれが85年シーズンの初登板なんですよ。あの試合は9回ノーアウトで福間さんが(クロマティ氏、原辰徳氏)2連発を食らって6―5の1点差。次は中畑さんで、3連発を食らいそうな場面で出ていったんです。ベンチも1点差でよう使ったと思いますよ。それで(中畑氏は左飛、吉村禎章氏と駒田徳広氏を連続三振に)抑えて、これは行ける、と吉田監督も手応えをつかんだみたいな感じですね。

ーー

当時はまだリリーフという概念が確立されてなかったですね。

中西

当時は3連戦で3イニングを3連投とかもありましたからね。でもタイプ的には自分はリリーフが合っていたのかな。野球に関してはリリーフ向きかもと思いますね。リリーフなら球数そんな投げなくてよかったし。先発よりも向いていたかなと思いますね。性格的にも。

ーー

そのシーズンはその後、山本和さんとのダブルストッパーで活躍し、終盤の9月に山本和さんがアキレス腱断裂で離脱してから1人でリリーフの重責を担いました。そして胴上げ投手。高校時代に甲子園で優勝していますが、タイガースの優勝はまた格別だったですか。

中西

違ったですね、そりゃ。高校時代は、足は震えなかったけど、タイガースの優勝は震えましたからね。

ーー

中西さんといえば1年目の破天荒なエピソードも有名です。

中西

門限破って寮(虎風荘)の塀から落ちたこと、ですね。2-3カ月ぐらい謹慎くらったかなぁ。寮長なんて、慌てて119番て何番や、何番やって(笑)。119番は119番でしょ(笑)。血相変えて大声上げてたらしい。(大事にならないように)救急車にはサイレン鳴らさんできてくれって言ったとか。

ーー

ケガでも悩まされました。

中西

トミージョン手術ですよね。靱帯移植までいってないけど、伸びてる靱帯カットしてもらうために手術しました。ロス(米国ロサンゼルス)まで行って。そのころはまだ成功例が少なかったですからね。やるならロスいけって言われて。

ーー

1996年に引退。現役生活13年で63勝74敗75セーブ。85年には最優秀救援投手、89年には先発として2ケタの10勝も挙げました。現役生活を振り返り、この成績をどう思いますか。

中西

まあ、平凡な数字ですね(笑)。でも10年やれれば(名選手)…という世界で13年やれましたからね。130試合ぐらいは勝利に貢献できたのかな。それは良かったかな、と。その後もコーチで12年やって、タイガースで25年お世話になりました。

野球評論家、プロ野球コーチとして

引退後の、評論家・コーチとしての経験談を語っていただきました。

ーー

引退後は評論家となり、またコーチとしては2004年、岡田監督の就任と同時に1軍投手コーチに招へいされました。高知商の後輩、藤川を育て、JFK(ウィリアムス、藤川、久保田)などリリーフ投手陣の強化に貢献されました。

中西

コーチ就任は、岡田さんから声をかけられたんですね。コーチのポジションとか分かっていなかったけど、ユニホーム着ろって、言われて。ファームか1軍かも分かってなかったんですが、それでもいいけど来てくれるかって。「岡田さんに任せますよ」と言いました、ね。

ーー

コーチという仕事はどうでした。

中西

ゲーム中は血圧が上がりますね。自分で投げてるよりも(笑)。ファームのコーチも4年間、やらせてもらった。ファームの子なんかはちょっとずつ成長していく、ちょっとうまくなっていくのが、伸びていくのが楽しみでした。1軍は毎日ゲームなので、そういうことはないんですが。

ーー

JFKは自然? にできあがっていった。

中西

3人のリリーフ陣が出来上がったのは自然でしたね。この3人はリリーフでいこうと。JFKって新聞で命名したのは日刊スポーツでしたね。藤川、久保田、2人は故障がちでもあったので、2人ともショート(短いイニング)で球数を管理する方が良かったんです。ジェフはもうリリーフやっていたし。

ーー

今では早め早めの継投はよくありますが、当時は7回から9回まで3人のリリーフ投手で勝ちパターンを作るというのは画期的でした。

中西

そのころ、岡田監督はラッキー7を重要視していたんです。「何でラッキーセブンというか知ってるか、点がいっぱい入りやすいやろ。だったら、そこを抑えたら勝機上がってくるやろ」って言ってましたね。

ーー

うまくはまりました。

中西

球児や久保田は実績のない選手だったので、本人は投げられる場所があれば…という感じでしたね。だから、そのあたりはやりやすかったですね。

講演会やトークショーで伝えたいこと

講演会講師としての思いを語っていただきました。

ーー

2015年に退団し、再び評論家として、そして最近では講演会やトークショーの依頼も多いと思います。中西トークを聞きに来られた方に1番伝えたいこととは何でしょう。

中西

野球に携わってきて、野球の中で学んだ人生教育というか…。礼に始まり礼に終わりでないけど、グランド入ったら帽子を取ったり、という感じのスタイルとかはやっぱり大事だと思うんです。教育とまでは言わないけど、野球を通じて子供たちに礼儀を学んでもらいたい。それを教えるというのは大事だと思うんです。
子どもたちだけでなく、それが経営者なら社員への指導の部分、部下を活かすためのノウハウというか、成長していくにはどうすればいいか、とか。野球を通じて学んだことを伝えていければと思いますね。
あとは今の時代の選手は、ぐいぐい引っ張るでは付いてこない。黙ってやれ、という昭和のやり方じゃだめで、何のための練習か、ちゃんと理解させないとやらないですからね。情報が多いから、ちゃんと説明しないといけない。何が正しくて、何が間違っているのか、情報の多いところで間違っている部分は削除していってやるのも仕事なんだと思います。そういうところでしょうか。

ーー

野球人生を振り返ると順風満帆だったように思いますが。

中西

挫折というのはなかったですけど、まあ思うのは暗黒時代(1985年翌年の優勝以降2003年の優勝までの17年間でAクラスは2回だけ、最下位は10回)でしょうか。個人というより、なかなかチームで勝てなかったことですね。勝てなくてチーム全体がモヤモヤしていた。自分自身、個人も含めて、負けている時のチームと、勝っているチームと雰囲気違いますからね。負け続けていると、負けることが悔しくなくなってくるんです。慣れてきて、もう慣れって怖いですね。

未来の子どもたちへ残したいもの

ベースボールスクールで子どもたちに野球を教えていることや、これからのことについて語っていただきました。

ーー

未来の子どもたちへ、残したいものは。

中西

今ね、ベースボールスクールに携わっているんです。少子化になって野球人口減っている中で、野球を通じて人材育成に携わっていければ…と。室内でゲームとか…それが悪いとは言わないんですが、子どものうちはみんなでにぎやかに、元気に、駆けずり回ってほしいですからね。

ーー

どちらでやられているのですか。

中西

淡路島でやっていて。基本的に野球の技術指導のほか、地域活性化や人材育成を目的としたスクールですね。選手は各クラブチームでやりながら、小学1年から中学3年までを対象に、完璧に技術に特化したスクールです。
バッティング、ピッチングに特化した、例えば球を速くするためにどんな練習をするかとか、故障しないトレーニングとか、整形外科の先生とかも入ってもらって、本当に野球の塾のような感じですね。無料(ボランティア)でやっていてですね、ユニホームとか、 グラブとか、道具買うのも大変だから、野球のメーカーにも協力してもらいながら。野球に恩返し、というか、なんていうか…そういう話があったんで、やってみようかな、と思ってやっていますね。

忙しそうですね。

中西

今、忙しいですよ。いろいろやっていますから。畑もやっていますからね。神河町、兵庫のヘソと言われるところで…畑を借りてタマネギ、ネギ、さつまいも、イモ…米も作って、売るかもしれない(笑)。自給自足を目指して、イノシシとか猿もいて、自然の中で孫を遊ばせたりですね。もうおじいちゃんだし…(笑)。

ーー

やっぱり中西さんは生まれ育った故郷のような自然がいっぱいの中で暮らすのが合っているんですね。本日はありがとうございました。

中西清起 なかにしきよおき

野球評論家、元阪神コーチ

高知県宿毛市出身。高知商時代は1、2、3年すべての年で甲子園に出場し、3年生の春にはエースとして優勝。 その後、社会人野球のリッカーを経て83年にドラフト1位で阪神入団。背番号は前年まで小林繁が着けていた「19」を与えられた。85年有名なバックスクリーン3連発の巨人戦でプロ初セーブ。このシーズン、21年ぶりとな...

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