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【講師インタビュー|奥村幸治氏】イチローの恋人からマー君の恩師へ。一流の育て方

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イチローの専属打撃投手を務め、田中将大を育てた奥村幸治氏。一流選手の思考を間近で見た経験や、野村克也・星野仙一両監督から託された「指導者の責任」を語ります。中学生の自律を促す環境作りや目標設定の重要性など、次世代の才能を伸ばすために必要な向き合い方を紐解きます。

目次
  1. イチローとの出会いと「恋人」と呼ばれた理由
  2. 野村・星野監督から学んだ「指導者としての責任」
  3. マー君の才能を見抜いた「適材適所」と自律の精神
  4. 控え選手も認めるチーム作りと組織のコミュニケーション
  5. 一流の行動に学ぶ!目標設定とリーダーの率先垂範

――

オリックス時代にイチロー選手が日本記録の210安打を達成したのが1994年、その時に専属打撃投手を務めていたのが奥村さんでした。マスコミに「イチローの恋人」として取り上げられ、多くの取材も受けたと思います。当時はどんな気持ちでしたか。

奥村

バッティングピッチャーの仕事を20歳でさせていただいて…(94年は)ちょうど2年目だったんですけど、バッターの人たちに迷惑がかからないようにということで必死でした。当時は1番若いバッターがイチロー選手、田口選手で、この2人が1軍で一番若かったので、「若い選手には若いバッティングピッチャーが投げる」というのが当時のオリックスの中ではあったんです。イチロー選手がずっと活躍しているというのもあって、バッティングピッチャーの先輩方々からは「もうお前が投げろよ」と、「もし俺たちが投げてバッティングの状態が崩れたらこれは良くない」と、ということは言われていたんです。実際に「イチローの恋人」いうようなことが書かれ出したのは、当時1試合だけ、バッティングコーチが、僕以外のバッティングピッチャーが投げるという設定をされた日があったんです。イチロー選手的には、僕のボールを打って試合に挑むというのが、彼のある意味ルーティンだったと思うんですけど、それがその日は(バッティングピッチャーが)僕ではないとなった時に「今日は僕はヒット打たなくていいですよね」みたいな話をマネージャーに伝えたらしいんです。そのことを慌ててマネージャーがバッティングコーチに話をしまして、それでバッティングコーチが「ごめん、3分でいいからオク(奥村)、投げてくれるか」みたいになってですね…その状況を当時の担当記者さんが「これって、もうイチローの恋人だよね」みたいになって、そういうところからキーワード的なものになったのかなと思っています。

イチローとの出会いと「恋人」と呼ばれた理由

―― 奥村さんも多くの取材を受けたことと思います。毎日のようにイチロー選手の調子を聞かれたりして…ストレスも溜まったんじゃないでしょうか。

奥村

正直、スポーツのメディアの方は、本当にいろんな方いらっしゃいまして…(笑い)。でもプロ野球界の大先輩の田尾(安志)さんとか、当時は「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)がありましたので、田尾さんがグラウンドに来られますと「オク(奥村)ちゃん、今日のイチローはどう?」みたいな、そんなことを聞かれると、田尾さんが僕にとってはすごく近い存在に感じて、逆にうれしかった部分もありました。イチロー選手は、当時は本当にマスコミの方に自分から話をすることはなかったと思うので、そういう部分では取材する側の立場の方々からすると、何か聞きたいとなった時に、1番そばにいる僕に話を聞こうというのが多かったかなというのがあったと思うので、僕としてはうんざりということはなかったですけど、ね。

――

そのイチロー選手との出会いが、実は奥村さんにとっては、かけがえのない財産になったのではと思います。ご自身の人生を振り返る時、専属打撃投手を務めていたことをどう思われますか。

奥村

本当に(ボクは)プロ野球選手になりたかったんですけども、裏方というところにいることで、イチロー選手も含めて一流の選手がどう考えて、どういうふうな行動をして、というものを見ることができましたし、裏方の立場というのは監督、コーチの話を聞くことができるので、コーチの悩みとかも聞くことができたので、今、指導者という立場としては、そこを「聞くことができた」「見ることができた」というのは、本当に自分にとっては財産になったと思います。

――

イチロー選手はどうして奥村さんに投げてほしかったのでしょうか。

奥村

田口さんもイチロー選手も共通しているのは、「ゲームに近い、生きた球を打ちたい」というタイプだったんですよ。あと投げさせていただいていたのがパンチ佐藤さんだったり、代打の方とかいらっしゃって、「打ちやすい」というよりも「ゲームに近い球を見たい」という方が多かったので、そういう部分では1番若い僕が、どちらかというとキレのあるボールを投げたりとかしていたので、そういう部分があったのかもしれないです。

野村・星野監督から学んだ「指導者としての責任」

―― 94年オフにオリックスを退団され、95年は阪神の打撃投手に、96年からは西武へ移って打撃投手を続けられました。短いスパンで打撃投手として球団を渡り歩くケースは珍しいように思いますが…経緯を教えていただいてよろしいですか。

奥村

まずは(ずっと)プロ野球選手になりたいというのがありましたので、バッティングピッチャーとして契約をしていただいたんですけど、当時は20歳で入りまして、(94年は)21歳で…と大学卒業よりもまだ若い年だったので、チャンスがあれば…というのを伺っていたというのは自分の中でありました。グラウンドに行く時間も一番早く行って練習していると…仰木監督が来られるのが1番早いんですが、仰木監督から「現役の選手を目指したいんだろう?」と聞かれ、「目指したいです」と言うと「挑戦しろよ」と言っていただきましたし、また寮に入っていた時に(午前)11時ぐらいに寮を出て(早めに球場へ行って)いたんですけど、その姿をたぶんイチロー選手は見ていたのかも分からないですけど、「とにかく奥村さん、現役が1番なんで、現役になるチャンスがあれば絶対に挑戦してください」とずっと言ってくれていたんですよね。そういう部分もあって、阪神の(入団)テストを受けるというキッカケになったんですけど、(実はその前に)本来はヤクルトのテストの話があったんです。ヤクルトの池山(隆寛)監督が僕の高校(兵庫・尼崎市立尼崎高校)の先輩で、ヤクルトのテストを受けるキッカケも作っていただいて、テストを受けるというのは決まっていたんですけど、その前に阪神からどうですか、という話をいただいて、小さいころから阪神ファンでしたので「受けたいな」と思って受けに行ったんです。けれども…バッティングピッチャーの仕事をしながら(入団テストの)練習をするというのは結構、肩、肘(ひじ)、疲れていたんですよね。その状況の中でトレーナーさんとも相談しながらテストを受けたんですけど…ちょっと痛み止めも飲みながら無理してテスト受けたんです。受けた時は、ボールは良くて、2日間で終わるところが3日間になったりしたんですけど、結局、最終的に獲ってもらえなかった時に、(テスト)最後の3日目の時に、残り3球ぐらいの時に、肘に電気が走りまして…ちょっとこれ投げられないかな、と。(テストが)終わった時に、本当に悪い状態になっていたんですよね。結局、阪神で合格は難しかったんですけど、そのあとヤクルトのテストの時に「これ、どうしよう」ってなりまして。痛み止めだけでは収まらず、注射打って、座薬も入れて、全部いきましたけど、全然収まらなくて、テストを受けにいった時には、「せっかく話をいただいたのに申し訳ないな」と思っていたんです。その時に野村監督が、僕の走り方を見ておられまして、「ピッチャーじゃなくて野手してみろ」って言ってくださって。宮本慎也さんの後ろでノック受けさせていただいたり、室内練習場で野村監督も一緒に、バッティング練習を見ていただいたりとか…そこで野村監督に言っていただいたのは、「わしもテスト生や、お前がプロ野球選手になりたい、その目が好きや」と言っていただいて。テストは結局ダメでしたけど、野村監督と話をさせていただいたのは僕にとって財産ですし、また(その何年後かに)教え子の田中将大が楽天に入って、野村監督に挨拶に行かせていただいたんですけど、そこで言っていただいたのが「少年野球の監督って、プロ野球の監督よりも責任あるよな」って言われたんですよね。「将来がかかっている、野球の技術以上に人として育てないといけないという、そこを少年野球の指導者として大切にしなさいよ」と言っていただいたんです。本当に心に染みるようなお話をしていただいて。ヤクルトのテストは3日間ぐらいでしたけど、野村監督のそばに行けて良かったなという経験をさせていただきました。

実はオリックスにバッティングピッチャーで入った1年目の時に、当時ダイエーホークスに佐々木誠という有名な選手がおられまして、福良(淳一)さんから北九州で試合がある時に電話がかかってきまして「誠がお前とごはん食べにいきたいって言っているからちょっと出てこい」と言われまして、福良さん、石嶺(和彦)さん、佐々木誠さんと4人で食事をさせていただいたことがあったんです。そこで佐々木誠さんから「何で君は102番の背番号を付けているんだ」って言われまして、「いやぁバッティングピッチャーでプロ野球の世界に入りました」と。「現役の選手になりたくないのか」って言われたんで「僕、なりたいです」と。「もしならないんだったら、来年オレがお前に600万円払うからダイエーに来なさい」って言われたんですよ、誠さんに。当時は1億円プレーヤーって、ダイエーだったら佐々木誠さんしかいないですし、オリックスはまだ1億円プレーヤーがいなかった時代で、(他球団の1億円プレーヤーでは)西武には秋山(幸二)さんとか、清原(和博)さんとか、石毛(宏典)さんとか、そうそうたるメンバーだけで。そんな(超一流の)方にこんなふうに声をかけてもらって、すごく幸せな気持ちだったんですよね。(その後)毎回ダイエーの球場に行きますと、ダイエー球団の方から「来年待っているよ」みたいな声をかけてもらいながら…すると、そのオフに秋山さんと誠さんのトレードになりまして、誠さんが西武に行き、秋山さんがダイエーに来るみたいな。で、この話が全くなくなったんですよね。(結局)その次の年(94年)にオリックスに僕は残りまして、そしてイチローに投げることができたという、すごい分岐点というか、すごい経験をさせていただいたというのがあったんです。そこで(95年オフに)誠さんに「西武のバッティングピッチャーってできるんですか」って話をさせていただいたら、「来い」と言っていただいて、西武が(バッティングピッチャーで)獲っていただくという話をしていただいて。僕は誠さんに投げたいと思っていたんですけど、当時西武は若返りをする時代で、松井稼頭央、大友進、高木大成、「この3人の選手に投げてください」と言われまして。僕、誠さんに全く投げることがなかったんですよ(笑い)。本当にそういう経験を、(バッティングピッチャーの)4年間させていただいたということです。

――

結局、西武を最後にプロ野球界からは離れられます。そのまま西武に残って打撃投手を続けようという選択肢はなかったのですか、それとも肘の故障があったとか。

奥村

いやぁ、(肘は)全くバッティングピッチャーを続けるには問題はなかったんです。西武の方からは「バッティングピッチャーと用具係を兼任しませんか」という提案もいただいて、悪い話ではなかったんですよね。ただ自分がプロ野球の世界に入った時に、やっぱりプロ野球選手になりたいという、そこを思ってやってきましたので、そこで一旦自分で考えたのは「このままバッティングピッチャーをずっと続けることが、自分の人生にとって1番なのかな」と。小さな身体でもプロ野球の世界に入るためにトレーニングしたりとか、すごくそういうことにも興味を持っていまして、当時はロッテに(トレーニングコーチの)立花龍司さんがおられて、すごく声をかけていただいていて「トレーニングのこととか、もっと深く勉強したいな」という気持ちもあったんです。そうしたら西武の(通訳・渉外担当)石島(浩太)さんがニューヨークメッツの通訳として行かれるというのを聞きまして、「僕も勉強することってできませんか」とお話をさせていただいたら、(メッツは)バレンタイン監督だったので「日本人が来てもいいよ、ウエルカム」といっていただいて…ここが、自分で環境を変えるキッカケになったということですね。

――

メッツにはどれくらい行かれていたんですか。

奥村

3カ月ほど行かせていただいて。でもキャンプの1カ月間はすごく濃い時間でした。日本のキャンプと違ってメジャーリーガーのキャンプって時間は短いですけど、当時はリッキーヘンダーソンとかいて、リッキーが早朝5時くらいにグラウンドに来たりとか、5時に来て、自分でウォーミングアップ1時間ぐらいして、自分でバッティング練習を始めたりするんですけど、そういうトップの選手がその時間にくると、1週間ぐらいすると若い選手たちが、朝5時に来る選手たちが増えるんですよね。リッキーからいろんなことを学びたいとか、やらされるのではなくて自分たちからやるという環境がアメリカのメジャーリーグの中にあったので、それは僕も日本の野球とは違う、文化があるということをすごく勉強させていただきました。

――

次に挑戦されたのが指導者としての道でした。

奥村

一応トレーナーとして活動していきたいなという部分で、運動生理学だ、運動心理学だとか、いろんなことを学ばせていただいたのですが、そうやっているといろんな高校の野球チーム、ソフトボールチームから「指導に来てほしい」という声をかけられ、大阪産業大学付属高校とか、滋賀の八幡商業とか、神戸の神港学園とか、野球は3つ見に行かせていただきました。ソフトボールは女子の園田学園、熊本が当時国体がありまして、熊本に当時、浦島海苔というチームが女子の3部にあったんですけど、その計5つのチームをいろいろ指導に行かせてもらいました。それと時間があると、少年野球のクラブチームに行かせていただくという環境で、なんか仕事をさせていただいていたというところですかね。

マー君の才能を見抜いた「適材適所」と自律の精神

―― 99年に中学硬式野球チーム「ドリームファイターズ」を結成されます。翌00年にボーイズリーグに加盟し、登録名は「宝塚ボーイズ」。チームを立ち上げたキッカケは何だったのでしょうか。

奥村

キッカケは、中学校のクラブチームの保護者の当番だったり、あとグラウンド整備ですね、お父さんがグラウンド整備をしたり、子どもたちが(自分で)道具を出すという姿がほとんどのチームにはなかったんですよ。僕は学校の部活動で育ったので、自分たちでやるという、そういう環境で育ちましたので、クラブチームの、この当たり前を見た時に、「これって矛盾しているな」と思いまして。小学校の小さい子の集団だったら大人が手伝ってあげないといけないというのは分かるんですけど、中学生で、ましてや高校野球を目指すというクラブチームで、何で自分たちで自立させないのかな、と。お母さんたちが土曜日や日曜日の試合とか練習で、パン、コーヒー、オニギリとかモーニングセットを持って、監督が来るのを待っているみたいな、この環境ってどうなのって思いまして。クラブチームの子どもたちでグラウンド整備できない子が多かったんですよね、それを見て自分でチームを立ち上げようと思ったのが99年ですね。

――

そのチームの3期生として入団してきたのが、兵庫県伊丹市出身の田中将大選手でした。何度も聞かれていると思いますが、最初にマー君を見た時の印象はどうでしたか。

奥村

まず小学校6年生の時の(投手)坂本(勇人=巨人軍)くんと(捕手)マー君とのバッテリーを見たことがありまして。坂本くんは「この子はプロ野球選手になりそうだな」っていう印象でした。運動能力が高くて。一方で、小学校6年生とか中学1年生のマー君を見て、プロ野球選手になるって思った人って、誰もいなかったと思います。それぐらい、1年生の時のマー君には、技術がすごいとか見えなかったですね。初日の練習にグラブ忘れてきて「グラブ忘れました」って涙ポロポロ流す…みたいなのが、僕にとってのマー君の第一印象でした。

――

その後、マー君は甲子園で伝説を作り、楽天のエースとして日本一となり、ヤンキースでメジャーリーガーとして活躍しました。マー君は自身を振り返る、あるインタビューの中で「宝塚ボーイズに入っていなかったら今の自分はない」と語っていますが、当時監督だった奥村さんとの出会いが、マー君の野球人生に大きな影響を与えたのだろうと思います。奥村さんが教えたこと、伝えたこととは何だったのですか。

奥村

1つは野村監督の教えでもあったんですけど、僕がテスト受けた時に適材適所と言われまして。例えば飯田(哲也)さんの話も「キャチャ―からセカンドだよ」って。「セカンドから外野だよ」って。そんな話をされて、僕にも「ピッチャーだけじゃなくて、お前の生きる場所がある」って、「内野手をして、外野をしたらどうだ」みたいな、そういう見方をしていただいたんです。なのでチームを立ち上げた時に、とにかく「みんな外野の練習をしたいんだけど内野をしよう」「上(高校、大学)でやっていくためには守備力って大事なので、みんなで内野を守れるようにしよう」と、そういうことをずっとしてきていたんですよね。田中将大は「キャッチャーしたい」と言って入ってきたんですけど、この子の可能性ってどうなのかなと見た時に、「ピッチャー面白いんじゃないかな」と思ったのが中学1年生の秋で、「やってみよう」と言ってやった時に、本当にいいボールを投げたんです。で、中学2年の夏ぐらいに、元々ストレートとカーブがいいピッチャーだったんですけど、「三振を取りたいのでスライダーを教えてほしい」って自分から来たんですよね。僕はスライダーピッチャーだったので教えてやると、その日のうちに僕より曲がるんじゃないかと思うほどのスライダー投げまして…。中学2年生の秋にキャプテンをさせて、この子には本物になってほしいと思ったので、とにかく責任を持たせたい、と。当然キャプテンなんで一番叱られますし、そこを本当に求めてやってきた子なんですよね。僕に一番叱られたと思います。でも叱られたことをちゃんと自分の中で受け入れて、チーム全体でどういうふうにしたらいいのかをきちっと考えて発言できる子だったので、当時のマー君と同じ同級生の子たちは「グラウンドの将大は厳しいです。でも普段、野球以外で会うとすっごい、いい奴なんですよ」とオンとオフの使い方がきちっとできる、それが田中将大だって、同級生も語っていますけどね。

控え選手も認めるチーム作りと組織のコミュニケーション

―― 宝塚ボーイズの子どもたちを成長させるために意識していたことは何ですか?

奥村

レギュラーの子たちによく言うんですけど「レギュラーの選手ができること」と、「控えの選手ができること」って違うので、そこを選手たちには違うんだということを分かってあげなさいよって言っているんです。「なんでアイツこんなことできひんのや」というのと、「あの子に出来ることってどこや」とか、お互いの「位置」が気付かないと。「この選手ならここができていい」、「この選手ならもっとここできる」とか、それぞれの「位置」があると思うんですよね。例えば控えの選手でチームのためにすごく頑張っていることがあると、そこを認めてあげないといけないよね、というようにお互いがそれを認め合う。逆に言うとレギュラーの選手ほど僕には叱られるので、控えの選手からみると「あんなことで監督に叱られるんだ」みたいなところとか、求められるレベルが違うんですよね。そこも控えの選手なりには気づいていく部分があったりだとかするので、そうなっていくとお互いに求め合って、お互いでチームを作る声のかけ方とか、選手間のコミュニケーションの内容が変わってくるというのがありますね。

――

2008年にはNPO法人ベースボールスピリッツを設立されました。これはどういう狙いだったのでしょう。

奥村

まず1つは、少年野球の指導者っていう地位が本当になんかボランティアなので、これってやっぱり良くないなっていうのをすごく思っていました。やっぱり責任ある指導をしていくっていうことを考えると、ある程度対価があってもいいんじゃないかな、と。そう思った時に、お金の流れの仕組みとか、いろんな企業様に応援していただくとか、こういうことも含めると法人化するっていうのが1つなのかなっていうところです 。1番の狙いに子供たちのためにグランドを作りたいっていう、野球場を持ちたいっていうのが1つあったので、それを思う中で、講演活動もそうなんですけど、NPO法人で講演(依頼)を受けて、費用(講演料)を子供たちへの環境作りだったり、指導者の給料として払える仕組みを作りたいっていうのがありましたね。

――

2009年にはカル・リプケン12歳以下世界少年野球大会に、監督としてチームを率いて出場されます。カル・リプケン選手が立ち上げた子供たちのための世界野球大会で、親交のあった星野仙一氏が派遣要請に協力し、チームは別称「星野ジャパン」とも呼ばれていました。星野監督とのつながりといいますか、声がかかったのはどういう経緯だったのでしょう。

奥村

当時のボーイズリーグの会長、渡辺(滉=ひろし)さんから「あなたならやってもらえると思います」って連絡が来たんです。お会いして初めてお話した時に「宝塚ボーイズが私は大好きです」って言っていただいて。「全国大会の入場行進が日本一うまいですよね」って。「全国大会の試合の応援しているスタンド、ベンチに入ってない子たちのスタンドの応援をしている子供たちの姿勢が本当に素晴らしい」って言っていただいたんです。またNPO法人を立ち上げて自分のチームだけではない、いろんな活動していることを、「こういう方だから信頼してやってもらえると思う」って言っていただいて、代表の監督の話をいただいたんですよ。そこで、初めて星野監督とも出会いしました。

――

星野監督とお会いした印象はどうでしたか。

奥村

僕が阪神の(バッティングピッチャー)時の中日監督だったので…最初はもう怖いイメージしかなかったんですけど。でも(会って話をすると)温かいんですよね。講演でも話をさせていただいているんですけど、星野監督が貧しくてグラブを買いたくても買えなかったっていう経験とかを語られた時に、自分が経験している以上の苦労をされてきて、で、プロで活躍されて、プロの監督になられたっていう、その経験を聞かせていただいた時に、「あぁこういう人たちに近づきたいな」とか、「こうやって(次世代の子供たちを)応援できるように僕もなりたいな」という思いが、出会ってなんかこう芽えたというか、さらに深くなったっていうところがありますね。

――

イチロー選手とは専属打撃投手として関わり、マー君とは監督と選手の立場で出会いました。野村監督や星野監督とのご縁とか、さまざまな野球界の方々との出会い、ご縁をどう感じておられますか。

奥村

あぁ…それは…父から教わったことかも分からないですね。父とか母とかには、自分に関わった人たちに対して自分がどう接することができるかとか、なんかそこをすごく教わりました。例えばピッチャーは、マウンドに立っていると守っている野手のために投げないといけないとか、やっぱり守っている選手が守りやすいように投げるのがピッチャーだとか、なんかそういうことを父から色々アドバイスしていただいたことがあったんですよね。周りに守ってもらっているっていうことを感じないといけないっていうような、なんかそういう1つ、1つのことが、当たり前にありまして。例えば学校の生活とかで、遅刻したことないですし、授業で寝たことなかったですし、忘れ物をしないとか、提出物はきちっと出すとか、当たり前のことなんですけど、そういうことを当たり前にするっていうことをすごく父や母から教えていただいたっていうところが、プロ野球の世界に入ってもチームのために当たり前にやっていることが、皆さんが「お前いいやつやな」みたいに見てもらっている部分なのかもしれないです。

一流の行動に学ぶ!目標設定とリーダーの率先垂範

―― 講演会では必ずこれを伝えたい、1番大事にされていることってどんなことでしょう。

奥村

いつもイチロー選手の話を必ずさせていただくんです。やっぱりイチロー選手ってすごいって思われるんですけど、でも技術も当然すごいんですが、考え方と行動の仕方、目標の立て方、ここが本当に素晴らしいと思うんです。でもこれはイチロー選手だからできるんじゃなくて、誰もが真似しようと思ったらできることなんです。その簡単なことをいかにどう続けるかみたいなところをイチロー選手はすごく大切にしている部分があって、それって例えば指導者からすると、レギュラーに対しての目標設定、控えの選手に対しての目標設定、それぞれって多分あると思うんですよね。そこを指導者がきちっと見極めてあげるっていうこと、また本人が やっぱりそこの目標の位置をしっかり定めて行動するっていうことっていうことができてくると常になんかこう気持ちって前向きに過ごすことができるんじゃないかなと思うんですよね。

――

このインタビューは、講演会を企画する主催者様が講師を選ぶ時に参考にされるものです。主催者様へ向け、講演会講師としてメッセージをお願いします。

奥村

様々なところで講演をさせていただいているんですけども、やはり多くの皆さんの悩みっていうのは人材育成だと思います。僕も少年野球の指導者を長くして、またプロの世界でいろんな指導者と出会うこともあり、今に至っているんですけども、その中でやっぱり言葉の声かけだったり、どういうことを意識させてあげたりとかっていうところが非常に大切になってくるかなっていうふうに思っています。それぞれの目標の位置も大切ですし、組織っていうのはリーダーが率先垂範、やっぱりある程度手本になる、見本になるっていうことをしてあげないと、いい組織っていうものはできないのかなっていう風に思っています。そういう意味でリーダーとしてどう考えてどう行動するか、一流の選手としてどう考えてどう行動するか、そんな話を講演の中で皆さんにお伝えして、皆さんのモチベーションが上がればな、というふうに思っております。

――

長い間ありがとうございました。

【インタビュー】奥村幸治 ベースボールスピリッツ代表

奥村幸治 おくむらこうじ

ベースボールスピリッツ代表

イチロー選手が 210安打を達成した時に、イチロー選手の専属打撃投手を務めていたことから“イチローの恋人”としてマスコミに紹介され、以来コメントを依頼されてのテレビ出演多数。 1999 年には、中学硬式野球チーム(宝塚ボーイズ)を結成し監督を務める一方、講師として各地で講演活動を行う。宝塚ボーイズの教え子に...

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