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平尾栄滋

ひらおえいじ

歴史研究家

平尾栄滋

プロフィール

名古屋大学工学部を卒業して三菱自動車に入社し、「三菱パジェロ」の開発に携わり、その後、教育部門に移り『自動車の高性能化』を出版。また金沢高専機械工学科に招かれ、教壇に立つ経験も持つ。「NHK高専ロボコン」では、全国大会に出場。名城大学キャリアセンターに移り、学生の就職指導を行う。
65歳以後は、名古屋城にて外国人専門の観光ガイド(ボランティア)。『徳川家康という男』『日本という国』を出版し、経済団体、一般市民そして小学生対象に講演活動中。貪欲なまでの探究心と「教科書を信じない」をモットーに史実と真実、歴史上の新事実を探り出しながら、そこに独自の推理を加味しユーモアを交えたわかり易い講演が好評を得ている。

講演テーマ例

  • 徳川家康関連
    ①どうする家康
    戦国武将として、また征夷代将軍になり江戸幕府を開いた人物として、成功者のイメージのある徳川家康だが、人の子として、親そして夫として、およそ考えられる不幸のすべてを背負っていた。母との離別、父の早い死、妻と子を我が手で殺す、我が子を人質に差し出すなど戦乱の世を生き抜いていく中で様々な苦労をしている。彼の私人としての苦悩を検証し、そんな困難をも乗り越えて平和な江戸時代を築き上げた徳川家康という男の偉大さを明るい笑いも交えて解説する。

    ②家康に関する新事実:自著『徳川家康という男』にて指摘した3つの新事実を分かり易く説明する。
    ・今川義元を父親と慕う家康
    ・信長や秀吉が毛嫌いした忍者を信頼し重用した家康
    ・関ヶ原の戦いを仕組んだのは家康と五奉行筆頭の浅野長政

    ➂家康を支えて守り天下人に押し上げた人々
    徳川家康はわずか2歳にして母と生き別れ、5歳の時には人質として他家に差し出された。幼い竹千代(家康)は、どのようにして守られ育まれたのか。成長した後には信長、秀吉の下で苦しい戦いを強いられてきた。どのような人物が家康の手足となって戦い、彼を天下人に押し上げたのか。

    ④幸運の人徳川家康
    徳川家康はその生涯で、「三方ケ原の戦い」「神君伊賀越え」など8度もの絶体絶命の危機を切り抜けてきた。それで家臣からは「幸運の人」とも称され絶大なる信頼を得ているのだ。ところが実は、それに加えてもう一つ「天祐=神の助け」としか説明がつかない大きな力で未然に守られた危機があったのである。徳川家康という大英傑はただ単に幸運というだけでなく、神仏のご加護のもとで戦い抜いた人なのである。

    ⑤德川家康に学ぶ
    自著『徳川家康という男』をベースとして、彼の偉業を解説する。家康は没落した戦国大名の家に生まれ、幼くして他家の人質に差し出される。わずか2歳にして母と離別し、7歳で父を亡くす。彼は人の子、夫そして父親としてありとあらゆる不幸を経験する。そんな逆境の中でも朽ち果てることなく、戦国の世を統一して平和で豊かな日本をつくりあげた。今日、我が日本を取り巻く地球環境は混とんとし、先行きが見えない状況に陥っている。講演の狙いは、家康の歩んだ道筋を辿り、我が国の明るい未来を準備することだ。

    ⑥苦悶する家康
    戦国武将として、また征夷代将軍になり江戸幕府を開いた人物として、成功者のイメージのある徳川家康だが、人の子として、親そして夫として、およそ考えられる不幸のすべてを背負っていた。母との離別、父の早い死、妻と子を我が手で殺す、我が子を人質に差し出すなど戦乱の世を生き抜いていく中で様々な苦労をしている。彼の私人としての苦悩を検証し、そんな困難をも乗り越えて平和な江戸時代を築き上げた徳川家康という男の偉大さを明るい笑いも交えて解説する。
  • 織田信長関連
    ①織田信長と天皇家
    信長は戦乱の世を統一する過程で、比叡山や高野山そして一向宗などの仏教と対立しその勢力を徹底的に排除している。だが、天下人として上洛するや天皇を崇拝して朝廷を保護し、財政援助もしている。戦乱で荒れ果てた天皇御所の修復や、中断していた伊勢神宮の遷宮事業も再開させた。信長の天皇家に対するこのような思いは一体どこから湧いてきたのだろうか。その根拠を織田氏の出自と祖先にまで遡り解明する。

    ②「本能寺の変」と織田一族
    本能寺にて明智光秀によって当主の織田信長が討たれた時、臣下の羽柴秀吉が「中国大返し」を実行して主君信長の仇を討った。この史実を知らない日本人は、おそらくはいないだろう。だがしかし、その時、数多く信長の息子や家臣たちは、一体どこにいて何をしていたことか。彼らはただ指をくわえて秀吉の仇討ちを横目に眺めているしかなく、他に何の手立てもなかったのだ。そして、すべてを秀吉に奪われた。その間の事情を、詳しく解説するものである。

    ③織田信長の出自と家系
    日本の歴史上、三英傑と並び称される織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康であるが、中でも信長は今日でも根強い人気を誇っている。だが、信長という大英傑はその氏素性や子孫に関して語られることはまずない。その一方、豊臣秀吉は貧しい農民の出自であることが広く知られ、徳川家康の場合、その家は三河国加茂郡松平郷の土豪として八代前の松平太郎左衛門信重まで遡ることができる。そこで、信長の出自と家系を調べてみた。その家は『古事記』の天岩戸神話にまで遡る。

    ④織田信長の祖父と父
    信長の祖先は守護の斯波氏に従い越前国から尾張国に移り住み、守護代の地位に就いた。やがて応仁の乱が勃発して戦国の世となると、主筋の斯波氏は没落し守護代の織田氏が尾張国を支配する。その織田氏もまた跡目を巡って内部抗争を繰り返した。尾張織田氏の本家は守護代の伊勢守家、その分家で又守護代の大和守家、信長の弾正忠家はその大和守家のそのまた分家筋なのだ。織田氏の中でも信長の弾正忠家は末端の支流ともいえる家であった。だが、弾正忠家は知る人も知る大富豪の家でもあったのだ。その礎を築いた祖父と父について調べてみた。

    ⑤「本能寺の変」の真実
    なぜ明智光秀は謀反を起こし、織田信長を討ったのか?これについては古今、様々な見解が示されてきた。だがしかし、そのどれもが真実とはかけ離れているようだ。事件の経緯を細かく追って、信長と光秀の人柄と二人の結びつきをつぶさに調べた結果、従来の見解とは全く異なる事件の真相が見えてきたのである。「事実は小説より奇なり」、事件の真相を詳しく解説するものである。
  • 豊臣秀吉関連
    ①豊臣秀頼の父親は誰だ
    豊臣秀吉の側室である淀殿が秀頼を身ごもった時、大坂城内では既にその父親探しが始まっていた。高齢の秀吉自身もさすがに疑っていたと言われ、その候補者として大野治長、真田信繁、そして石田三成の名が挙げられている。それ以来、400年以上にわたり父親探しは続いている。実のところ、秀頼の父親は誰なのか?探ってみれば、この3人は確かにいずれも疑わしい。さて、その真実は…?

    ②豊臣秀吉と股肱の臣下たち
    秀吉が木下藤吉郎と名乗り信長の下で草履取りをしていた頃から、彼と交わり家臣となって終生にわたって支え続けた男たちがいる。蜂須賀正勝、前野長康、山内一豊、尾藤重直らである。蜂須賀正勝と山内一豊は秀吉の死後、徳川家康につき明治維新まで大名として継続している。だが、前野長康と尾藤重直は精一杯貢献しながらも、秀吉によって殺されてしまう。明と暗、何が運命の分かれ目となるであろうか。

    ③天下人・豊臣秀吉の置き土産
    「置き土産」という言葉については、「少しばかり迷惑なもの」「早めに処分すべきもの」そんな意味が含まれている。これに該当するのが「関ヶ原の戦い」「小早川秀秋の裏切り」「キリスト教と鎖国」などである。この国では絶大な人気を誇る豊臣秀吉という男が、その実は「我がまま勝手」「はた迷惑」な人間でもあったのである。秀吉の隠された裏の顔に着目して解説する。

    ④京都の世界遺産と豊臣秀吉
    天下人となった豊臣秀吉は、日本中の富を独り占めするほどの大富豪となった。その金に物を言わせて、秀吉は戦乱で荒れ果てた天皇御所を修復し、長らく中断していた伊勢神宮の遷宮事業も再開させた。また、神社仏閣の修復と再建にも取り組んでいる。さらには、茶の湯を愛し西陣織も奨励している。今日、日本が世界に誇る京都の街並みは秀吉の遺産と言えるものなのである。こうした内容を、具体的な例を挙げて分かり易く解説する。

    ⑤「関ヶ原の戦い」と高台院(秀吉の正室、寧々)
    この戦いの勝敗のカギを握っていたのは、高台院であった。彼女は義弟の浅野長政と結託して、大坂城内に「秀頼は秀吉の子ではない」との噂をばらまいた。そして、石田三成と対立する秀吉子飼いの福島正則や池田輝政らを豊臣家から切り離し、徳川家康サイドへと誘導した。「関ヶ原の戦い」では、浅野長政,幸長親子は「高台院のために戦う」と明言していた。その背景にあるのは、正室の寧々と側室の淀殿との確執があったのだ。

    ⑥大富豪・豊臣秀吉の資産と遺産
    貧しい農民の家に生まれながら、天下人にまでのし上がった豊臣秀吉という大英傑は、13歳にして生まれ故郷を後にする時、母親から今の金にして8万円を手渡されたと言う。そして35年後には関白太政大臣にまで上り詰める。その時、どのくらいの年収があり総資産額はいくらだったのか。また、彼は長引く戦乱で荒廃した京都御所の再建や京都の町の整備に大きく貢献していが、その費用の総額は?そして今日、世界中から愛される京都の町は秀吉の貴重な遺産でもある。そうした内容を具体的な数字を示しながら興味深く語る。
  • 浅野長政関連
    ①豊臣政権五奉行筆頭浅野長政の苦悩と決断
    秀吉亡き後、台頭する徳川家康を前にして浅野長政は豊臣政権を守るべきか、実力者の家康に従うべきか、大きな決断を迫られる。長政は秀吉の正室高台院とは義理の姉弟の間柄であり、家康は個人的には気の合う相手であった。その一方では、同じ五奉行の石田三成とは犬猿の仲であった。関ヶ原の戦いとは、正室の高台院を担ぐ家康の東軍と側室の淀殿に付く三成の西軍という見方もできる。長政は東軍につき、嫡男幸長は西軍の岐阜城を攻め落とす大功を挙げる。その時の長政の苦悩と決断をわかり易く解説する。

    ②討ち入り後の浅野家
    我々が目にする忠臣蔵や赤穂浪士の物語は、大石内蔵助の切腹をもって幕を閉じる。だが、その後の出来事を調べてみると実に興味深い事実が浮かび上がってくる。義士たちの残された家族はどうなったのか。義士たちが望んだように浅野家は再興できたのか。片手落ちの裁定と非難された吉良家は、大石らが切腹するその日に取り潰されているのだ。そして「殿中松の廊下での刃傷事件」の背景には、3年前に発生した「江戸大火」が伏線になっている。これがもとで、吉良上野介は内匠頭を目の敵にする。このように、世に知られていない史実を取り上げ分かり易く解説する。
  • 日本という国関連
    ①日本という国
    日本という国は、昔も今も世界中の人々を魅了し、彼らから愛されてきた。その理由の一つには礼儀正しく親切で、約束や時間を守り律儀で正直だということが挙げられる。また、平成から令和に時代が変わっても日本人は天皇家をとても敬愛しているが、そうした国家元首と国民の関係は世界中が称賛されている。日本という国はなぜ世界中から愛されるのか、どうしてこんなに律儀で正直な人になったのか、なぜ日本人はかくも天皇家を敬慕するのかなど、古事記や風土記を読み解きわかり易く解説する。

    ②世界中から愛される国・日本
    今も昔も、日本は世界中から愛される国なのだ。古くはポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエル、明治時代には東大教授として来日したエドワード・モースらが、我が国を激賞している。また、日露戦争の勝利は欧米諸国を驚愕させ、太平洋戦争では植民地から独立したアジア諸国に感謝されている。このような事例を紹介しながら、日本人はなぜこのように愛されるのかをわかり易く解説する。講演の狙いは、日本人の優れた特質を多くの人々に理解してもらい、自信と希望に満ち溢れた国づくりに邁進することである。

    ③「侍と忍者」から日本と日本人を知る
    今日、我が国にはおびただしい数の外国人が訪れるが、彼らの多くは「侍と忍者」に大変な興味を持っている。外国人がインターネットで日本について検索するとき、一番多いのが侍で、二番目が忍者と言う。記録に残る日本最古の忍者は聖徳太子臣下の大伴細入とされるが、侍や忍者は一体いつの世から存在したのか。彼らは何を目的とし、どんな修行を繰り返していたのか。侍はなぜ腹を切るのか。今や、「侍と忍者」は日本人の鑑であり日本の貴重な文化遺産なのだ。彼らを知ってこそ、日本人の自覚が芽生えるのである。

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活動実績

1948年6月 愛知県一宮市にて誕生
1967年3月 愛知県立一宮高校卒
1972年3月 名古屋大学工学部航空学科卒
1972年4月 三菱自動車工業株式会社に入社(乗用車開発本部)
2002年4月 金沢工業高等専門学校機械工学科に入職
2002年9月 『自動車の高性能化:山海堂』出版
2003年11月 NHK高専ロボコンの全国大会に出場
2005年8月 株式会社テクノワシノに入社(総務部)
2009年4月 名城大学に入職(キャリアセンター)
2012年4月 ECO&COST研究所主宰
2018年7月 『徳川家康という男:郁朋社』出版
2018年8月 歴史研究家として講演活動開始
2019年7月 『日本という国:郁朋社』出版

主な著書

日本という国 平尾栄滋の著書画像  徳川家康という男 平尾栄滋の著書画像  自動車の高性能化 平尾栄滋の著書画像

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